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2015.10.10 | 店長おとぼけコラム

生い立ち

サンバリア100の前身は「ハローレイン」という傘屋です。当時、個人のネット販売では販売者自身を知ってもらい、信用していただいて購入に結びつけるのが重要でした。

そういう意味でHPにも自身を紹介するページを設けました。

ひょんなことからその15年前のページを見つけ読み返しましたら、なつかしい。

余計なことですが掲載いたします。

 

1.茨城県日立市

私は昭和30年京都市内に生まれ、高校まで過ごしました。

大学時代は神戸の深江で寮生活をしていました。

その頃から、ハローレインがある阪急岡本という場所は華やかであこがれていました。

卒業後神戸を離れ神戸からは遠く茨城県日立市に本社がある日立エンジニアリング(株)に就職しました。

日立市は目の前が太平洋で、気候はよく、『日立の青空』といわれています。

そこでは原子力関係のプログラムを作っていました。

元々プログラムを黙々と組むようなそんな性格ではなかったのと、頭脳のキャパが小さかったので、頭が割れそうになったのを憶えています。

これは向いてないと本気で思いましたが、どこでも順応するタイプですのでそれなりに楽しく過ごしました。

企業城下町といわれる所はどこでもそうでしょうがどこへ行っても誰かに会う。こ

れって結構つらいものがあります。

誰かに常に見られている、そんな窮屈なところがあります。

 

2.原体験

よく、「なんで傘屋になったの?」と聞かれます。

私は就職したときから、30才で独立したいと漠然と思っていました。

いざ独立しようと考えたとき身近にあるのが傘でした。

というのは、母の実家も親戚 も京都で洋傘の加工業を営んでいました。(大手の傘メーカーから材料の提供を受け、傘を作る仕事です)

あれは小学3年生の時だったでしょうか、おじいちゃんが特注でワタシの傘を作ってくれました

。その傘は全体がブルーですが1駒(三角形の1枚)だけ黄色になっていました。

その傘をさして学校に行くと、とにかくよく目立つので皆がひやかします。

「破れたんで、つぎはぎしてもらいよった」しかし当時結構この傘が自慢でした。

これが原体験になっていると思うんです。

 

3.神戸岡本で開店

日立市に4年、転勤で東京に暮らして4年、合計8年間のサラリーマン生活を過ごし、いよいよ傘屋をオープンする事になります。

場所は神戸の岡本しかないと考えていました。

その頃まではどこの商店街にも必ず傘屋さんが一軒はありました。

それがどんどんなくなっている時でした。

とにかくやるならオリジナルの傘で人が持っていない傘を売ろうと思っていました。

それには傘屋ではなく『レインブティック』でなくてはなりません。それがピタッとくるのが岡本でした。

 

4.そして13年

傘屋という業種は伸びる業種ではないと当時から思っていましたが、やりようによってはおもしろいかもしれないと考えました。

そしてあえて逆風の中をスタートしました。

早いものであれから4月で13年になろうとしています。

確かにバブルの時もあまりいい目はしていません。

それでも自分が考えたものが商品になりお客様に買っていただき、喜んでいただける。

これが何よりの喜びです。

 

5.時代はインターネット

ホームページは3年前に作りました。

当時、インターネット人口は5万人です。

インターネットで商売なんか成り立たないと考えていましたので、ホームページの更新なんて1年に1回でした。

恥ずかしながらやっと目覚め、去年の12月から気持ちだけは本腰を入れ始めました。

まだまだ道は遠いですが1歩ずつ前進して行こうと思っております

 

平成12年2月13日

ハローレイン 今川比呂史

 

6.実店舗閉店

平成12年8月で店舗を閉めました。

足かけ13年でした。

店の売り上げはピーク時の半分以下になりました。

もう、店舗は意味を持ちません。

店舗は閉めても、インターネットでの販売と卸業務は続けていきます。

考えてみればハローレインにもバブルがあったのです。しかし、バブルと呼べない程のバブルでした。

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